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VOL 9 ─日本人とオイルレザー─

□□昨日のつづき□□

2002年12月15日号  VOL.009

「比較民族論」によると、遺伝子の分析や言語学その他様々な分野で日本民族の特殊性が浮かび上がるのだそうな。 宗教観などは知人の外国人に理解できないとまで言われた。大きな海流に挟まれた島国と言う歴史形成もあるのだろうね。(人間のガラパゴスか?)
特殊性の一つに、肉食する事をどこか忌み嫌い、獣の皮を身にまとうのをタブー視して来た事も入るよね。だから印伝皮など一部を除いて革文化は存在していなかった。

──そんな国「日本」が明治維新後、急速に近代化しようとする。
例の「富国強兵」政策である。列強外国の脅威に対抗して軍備の増強を図っていく中で兵の服装も変えねばならなかった。(戊申戦争や西南戦争を想い出して見ると良い。銃や大砲は扱っていても和服を着ている。第一、足元はワラジである)

何度も繰り返したが軍装とは革装であり、革は<オイルレザー>でなければならぬ。当時の日本にはオイルレザーどころか総合的なタンニン鞣し工場すら無い。従って、他の分野と同じ様に外国人技術者を連れて来て技術の習得をする必要がある。
文献によると英国人チャーリー某に指導を受けたとある。現在の革業界で<茶利鞣し><茶利革>と呼ぶ製法は、この名残りと思われる。(米国人ヘンリーとの説もある)

オイルレザーの製法を習得した日本は、周知のように明治中期以降、大陸や南方へと進出して行く。(侵略かどうかはここのテーマでは無い)  しかし<オイルレザー>は軍用の生産物に限られていたし、工場も職人達も軍御用達の国策会社であった。
一般人は相変わらず和服主体であり、「草履」「下駄」「風呂敷」の文

化であった。

日本人が明らかに「洋服」に変わったのは第2次大戦後、1950年代からである。前回に述べたような(祖母のハンドバッグ)も(曽祖父のボストンバッグ)も現代の日本には存在しないのである。その後、敗戦の貧困から高度成長を経て国が豊かに変り人々の目が<ヨーロッパ・ブランド>に憧れ向いたのは理解出来る。しかし、その素材を見極めようとした時、アクリルとウール・レーヨンとシルク・ポリエステルと麻は区別出来ても、合皮と本革の区別が出来なかった。
革を使ってこなかった家庭に育った人々には、革の識別は無理な事だったのだ。

さて、第2次大戦終了まで日本軍御用達の鞄や軍靴を作っていた職人達はその後、どうなったか? 勿論、軍需産業は解体しているから、当然民間需要の鞄職人・靴職人・小物職人と分化していくのであるが、鞣しにも加工にも手間がかかり、結果高額となる
<オイルレザー>は、革の知識を持たない一般人には全く需要が無く、戦後数年を経ずして市場から姿を消してしまった。

(F)
──以下次号─