□□昨日のつづき□□
2003年2月15日号 VOL.013
──オイルレザーを復元する──
1974年、欧州雑貨輸入卸商社として創業した我々は、ルイヴィトンやグッチ等の並行輸入で利益と実績を上げながら内心は釈然としない思いを抱いていた。
生活道具として堅牢に作られた鞄が数世代に渡って使われ続けている事実と、そのアンティークに色変わりしツヤ光りした革の美しさをヨーロッパで見てきた我等が塩化ビニール製や布製のBAGを有難がって買い漁る軽薄な女達との間に立って儲けるだけの為に大好きなヨーロッパと、それよりも愛して止まない日本との間に誤解と偏見を助長しているのだとの思いが払拭出来なかったからだ。
─ヨーロッパのオイルレザーと、その革文化を日本に紹介したい─
そんな思いはいつでも持っていた。 しかし、オイルレザーのBagを輸入し百貨店に置いてもらったが全く売れない。 ブランド名が知られていないからだった。
オイルを含んだ革だからこそ、ゴム糊もボンドも使えず、必然ハンドメイドによる少量生産を強いられ、その寡産ゆえに高額になり、寡産ゆえに流通に乗れず、広告宣伝とは無縁のブランドだった。
国産化出来ないだろうか? そんな考えが浮かんだ。
JETRO(日本貿易振興会)へ行き、皮革工業会や鞄工業会のリストをもらい一軒一軒尋ねていった。 愕然とした。 前号までの記述の様に旧日本軍用の革を作っていた職人達は、敗戦から三十数年、既に60代~70代で現場からは引退し、後継であるべき現役の職人達はオイルレザーの名さえ知らなかった。
原皮問屋をまわると、何処にでもオイルレザーと称するものは存在した。しかし内実は、ヌメ革に加脂したものは良い方で、染色等の際に樹脂やラッカーや溶剤を塗布して、しっとりさせてみたりベトベトさせてみたり、更にはクロームとタンニンのコンビオイルと言うものや、ロウ質を溶かしいれたもの等、例外なくマガイモノであった。
革は無い、職人はいない・・・・・・・国産化は諦めるしかないか、との思いがよぎった頃、自分達と同世代の若いレザークラフト工芸家と、研究熱心な鞣槽技術者と出会ったのだ。
我々は古い文献を探し回り、戦前の茶利ダイコ(注;革用の太鼓状の鞣し道具)の復元から始めた。 スチームの扱い方に苦労し、圧力の加減に苦心し、加えるオイルの混合比に頭を悩ませた。
─失敗の連続だった。
<今、中島みゆきの歌が頭の中で聞こえている>
染色も今でこそ、数枚(2~3頭分)で回せるミニダイコがあるが、当時のタイコは一回の生産単位が30枚(15頭分)であった。 即ち、期待していたような革が染め上がらなくても、それが30枚もある。 価格にすると100万円近くになる。棄てるわけにはいかない。 巾3センチのベルトで裁断すると1200本取れてしまう。2,5センチのベルトなら1500本だ。 売りに行くしかない。 ひたすら営業した。そしてそんな革が毎月作り出された。ひたすら営業した。
──当時ご協力いただいたジーンズShopやメンズShopなど全国の小売店の皆様、この場を借りて、改めて御礼申し上げます。
約3年かかってようやく思っているような革が出来上がった。
(F)
──以下次号─